関根選手インタビュー(前編) Interview

関根永悟01

関根選手が昼ごはんをよく食べているという松山市内のカフェで・・・
(インタビュー日:2010年9月9日)


--サッカーを始めた時期は小学校4年生ということですが、何かきっかけはあったんですか?

幼稚園の時の同級生のお父さんが地元の少年団のサッカーのコーチをしていて、小学1年生のころからサッカーをやってはいたのですがそのころは、まだ同じチームに同学年の子が3,4人くらいで、サッカーをしてるって感じではなかったですね。本格的なサッカーとなると、4年生ぐらいだったと思います。

--その頃はサッカー以外も色々スポーツされていたんですか?

いろいろやってたのですが、サッカー以外は、長続きしなかったですね。水泳もやっていたのですが浅いプールから深いプールに行った途端にやめましたし、一輪車も買ってもらったんですが、転ぶのが嫌でやめました(笑)。

--その少年団はどんなチームだったんですか?

弱小チームでした。監督はおじいちゃんでしたし。近くにトオル(元愛媛FCの千島 徹選手:愛媛FC 2006-2009在籍)のチームもあったんですが、向こうは超エリートで、強かったです。トオルのチームは幼稚園の時から強くて有名でした。

--千島選手のチームと対戦したことはあったんですか?

小学校の時やりましたが、向こうからは完全にナメられていて、2枚目のメンバーとやらされてました。
ただ、この対戦がキッカケで、中学生時代に入ることになるクラブチームのコーチが、自分を気にしてくれたっていうのがありました。

関根永悟09--じゃあ、中学校はそのクラブチームに?

そうですね。「ロクFC」っていうチームだったんですけど、会費さえ払えば、誰でも入れるクラブチームなんですけどね(笑)

--でも、普通に中学校の部活じゃなく、クラブチームを選んだんですね。やっぱりうまいヤツはいっぱいいたんですか?

人数も多くて、みんなうまかったです。

--そこでも大活躍で?

いやー、小学校のことは、弱小チームではあったものの、そこそこやれてるなーっていう自信はあったんですが中1でいきなりその自信は、へし折られました。

--つらかったですか?

そうですね、中1の時の練習試合でシュートを外しまくった試合があって、その試合を見ていた自分のかあちゃんから「もうやめてもいいんだよ」って言われて、でも、それが逆に悔しくて、絶対続けてやるって思ってました。

--その頃のポジションは前の方だったんですか?

小学校の頃から、この中学校の途中ぐらいまでウイングでした。この後、どんどんポジションが後ろの方に下がっていきましたね(笑)。

--その後、少しずつ試合に出れるようになっていくんですか?

いやぁ、なかなかならなかったです。だいたい出れるか出れないかの位置にずっといました。
でも練習だけは休まず出てました。

--練習の参加もクラブチームだったら結構大変だったんじゃないですか?

そうですね。自分が通っている中学校から練習場所までが遠かったので、毎日かあちゃんに最寄駅まで車で送ってもらってました。

--お母さんの協力は大きかったんですね。

はい、そこは本当に感謝してます。

--そのクラブチーム時代で学んだことはありますか?

監督が怖かったですね。しつけの面とかも厳しくって、ジャージの裾のチャックが開いてたりするだけで、すごい怒られたり、ご飯が口に入っていたまま、おかわりに行くと怒られたり、とにかくよく怒られました。

--でも良いことですよね。中学生って結構荒れたりするじゃないですか。

そうですね、今思えば、良かったと思います。その厳しさのおかげで今の自分がいるっていうもありますし。

--その頃から、やはり身体能力は高かったんですか?

足は、遅くはなかったと思います。得意だったのは体育と図工でした。

--図工!絵うまいんですか?

何かを作るのも絵を描くのも両方好きでした。昔はよく絵も描いてましたね。サッカー雑誌を開いて、サッカー選手がボールを蹴っている絵とか描いていました。絵はほんと好きでしたね。

--その後、サッカーの名門、大宮東高校に進むこととなるんですが・・・

そうですね、うちのクラブチームの監督が高校とつながっていて、その推薦もあって入学できました。

--でも推薦もらえるってことは中学校3年生の頃は活躍してたんですよね?

いや、活躍できてなかったですね。後輩の方がどんどん試合に出てて、でも練習は毎日やってました。

関根永悟05--その練習を絶対休まないっていうのは強い思いがあるんですね。

中学校の時のコーチに「努力に勝る天才はなし」という言葉を教えてもらって、それ以来、努力だけは続けようと
思ってやってました。この言葉は、今も雑誌の取材とかで聞かれると言っています。
この中学校3年生の時も試合に出れない同級生のヤツは、どんどんやめていきましたが、僕は最後までやってましたね。

--関根選手のその絶対逃げないっていう強い意志はすごいですね。

サッカーだけですけどね(笑)

--さて、大宮東高校に入学しましたが、高校時代は少し変化はありましたか?

そうですね。高1の時からメンバーには入れてました。

--この頃のポジションは?

中学校の途中ごろから中盤になっていたのですが、高校入学時も中盤でした。

--いつごろからディフェンダーに変わっていくんですか?

ちょうどこの高校1年生の終わりごろに3年生が引退して、チームの紅白戦をやるっていうことになってその時、控え組みの方で与えられたポジションがディフェンスで、そこからずっとディフェンスになりました。

--ここでようやくですね。

そうですね、ちょうどこのポジションを変えられたことで、そこからレギュラーも定着したように思います。

--レギュラー定着。このポジションチェンジ以外に自分の中で変化があったんですか?

中学校時代の監督のプレッシャーがなくなったのが大きいです(笑)

--そんな怖かったんですか?

中学校時代は試合に出たかったんですが、試合に出てミスして怒られるのは嫌だなーって思ってました(笑)

--高校時代はノビノビとプレーできたんですね。

そうですね、高校2年生の時からレギュラーで試合にずっと出てましたし、3年生の時はチームのキャプテンもやりました。

--キャプテンだったんですか?

いやふわふわした感じで選ばれたんですけど、一応やってました。

--どんなキャプテンだったんですか?

あんまり口でいろいろ言うタイプじゃなく、プレーで引っ張っていくという感じだったと思います。

--高校時代のチームはどのくらいまで勝ち上がっていったんですか?

高校選手権の埼玉県の決勝で武南高校にボロ負けして高校生活が終わりました。

--その後、ホンダルミノッソ狭山に行くこととなるのですが、大学という選択肢もあったと思うのですが・・・

高校から大学へのパイプがなくって、しかたなく(笑)1コ上の先輩が2人、ホンダルミノッソに入っていて、それでセレクションを受けてみようと思って、そのセレクションに受かって、入りました。

--高校3年生でその選択ってなかなか勇気がいることのようにも思えるのですが・・・

高校卒業してサッカーのプロになりたかったのですが、なることができなかったので、サッカーを続けられてお金がもらえればと思って、その道を選びました。

--ホンダルミノッソ狭山は、その当時、関東1部の強豪でしたよね?

本気でJFL入りを目指していたので、僕がいた5年間で2回くらいJFLとの入れ替え戦に出ました。

関根永悟08--ホンダルミノッソ時代はもちろん仕事しながらサッカーもということだと思うのですがはどんなことをされていましたか?

ホンダの自動車工場のライン作業員の仕事です。バッテリーの取り付けやシート、ドアや内装もやりましたね。
最初の3年間くらいはずっとバッテリーを付けてました。

--ほんとにバッテリーを付けるだけの作業なんですか?

はい、ずっとです。1分間で1台くらいに付けなきゃいけないんですよ。1日500台取り付けてました。ドアの取り付けとかもやばかったですね。姿勢とかもしんどくって。この頃の作業で、実際、腰を痛めました。

--サッカーではなく、ライン作業で腰を!

はい、ヘルニア一歩手前でした。

--この仕事は本当につらかったと思うのですが・・・

そうですね、もう2度とできないと思います(笑)よく5年も続いたなと。

--空いている時間でサッカーの練習てことでほとんど休みはなかったんじゃないですか?

そうですね、仕事が休日の時はサッカーの練習があったんで、両方が休みっていう時は、ほとんどなかったです。

--でもこれは貴重な経験でしたね。

そうですね、もうやりたくないですけど(笑)これができたら他のことは何でもできると思います。

・・・そして2005年、愛媛FCへ入団となる関根選手。
インタビュー後編へつづく

関根永悟03



■関根永悟 選手
ポジション : DF
生年月日 : 1981年9月11日
身長/体重 : 176cm/68kg 
出生地 : 埼玉県
血液型 : B型
前所属チーム : ホンダルミノッソ狭山