大山選手インタビュー(前編) Interview

まずは大山選手の生い立ちから
産まれは埼玉県大宮市。全国でも有数のサッカーの街である。生まれながらにしてサッカーが身近にある環境で育った大山選手にとっては、サッカーを始めるということはごく自然のことだったという。
両親が教師をしていて、社宅に住んでいたんですが、その社宅の年の近い子達は、みんなサッカーをしてました。僕も周りの影響で自然とサッカーを始めていました。なぜサッカーを始めようと思ったかは思い出せないです。
学校区にあるごく普通の少年団に入ってサッカーしていたのですが、小学校2年か3年位の時に、自分が所属していた少年団が公式戦に出場できないような状態になってしまったので、やっぱりやるからには、試合に出たいというのがあって「大宮ストライカー」っていうチームに小学校6年生までいました。
その後、大山少年はすぐにサッカーでその才能を開花させる・・・
--やっぱり始めたころからサッカーは上手だったんですか?
正直うまかったですね(笑)だいたい小学校5、6年生から市の選抜チームとかが作られてきてそれには、常に選ばれていました。またその当時、トレセン(※)にもしょっちゅう選ばれてまして、トレセンっていうのは、県南部のトレセン、県のトレセン、関東のトレセン、ナショナルトレセンとどんどん上がっていくのですが、いつも最後まで選ばれていました。
一番凄かったのが、小学校6年生の時に、中学2年生(U14)のナショナルトレセンに全国で僕だけが飛び級で選ばれていました。当時の僕のこと、ナベ(愛媛FC MF渡邊選手)も知ってたって言ってました。
※トレセンとは・・・正式には「トレーニングセンター制度」。日本サッカーの強化、発展のため、将来日本代表選手となる優秀な素材を発掘し、良い環境、良い指導を与えることを目的とした制度のこと。
--やはり、それは、周りよりも飛びぬけて努力されていたんですか?
いやぁ、でも本当に特に努力したっていう感じは自分ではなかったです。自然に与えられたことをやっていたら、自然とその評価が得られてました。
--そのまま浦和レッズのJrユースに入られるわけですが、そこはセレクションを受けたんですか。
はい、2次試験まであったと思うのですが、緊張しながら受けた記憶があります。
--中学校は普通に地元の中学校だったんですか。
はい、ただ、学校でも何か部活に入らなくてはいけなくって、科学技術部みたいなのに形だけ入ってました(笑)
--浦和のJrユースに入った時には、レベルの差は感じましたか?
正直、全然自分でもやれるという自信はありましたし、事実、実績も残せていたと思います。
--それだけサッカーしていたら勉強する時間もなかったのでは?
中学時代の定期テストは、全て学年で1番でした。何か自慢ばかりになるんですが、特に中学3年生時の高校入試の模擬テストで偏差値73.5というのをたたき出したことがあります。
--サッカーも一番、勉強も一番、正に無敵ですね。
ほんとに無敵でした(笑)
--そこまで無敵だったら将来、日本代表になるとかワールドカップ出場とかは当然夢見ますよね?いやぁ、このころは、全然自分は無理だと思っていました。努力を特にしてなかった分、そんなに甘くないってどこかで思ってましたね・・・
--Jrユースからユースへのセレクションはあったんですか?
今は、どうか知らないのですが、その当時は、Jrユースからユースはエスカレータ式でみんな入れたんですよ。僕も高校サッカーは上下関係とかがちょっとめんどくさいっていうのもあって、ユースへの道を普通に進みました。
--ユース時代もやっぱり目立っていたんですか?
うーん、そうですね。ユース時代は、波があったかもしれません。高1の時に、「ぜんそく」にかかってしまって、それが結構大変でした。その後も、クロスの練習をやりすぎたせいもあると思うのですがスポーツヘルニアになってしまって、調子を崩してしまう時期もありました。
ただ、ユース時代に、今でも恩師である「菅野監督」と出会うことができ、菅野さんの的確な指導により、3年生時には大きく成長することができました。
--その当時の浦和レッズ出場最年少記録を作ったんですよね?
当時の浦和は初のセカンドステージ優勝を達成し、その消化試合ということで出させてもらっただけです。おまけみたいな感じです。
--いやいや、でもそれはやっぱりユースの中でもすごかったからですよね。
菅野さんが当時サイドハーフでなかなか芽が出なかった僕をボランチで起用してくれて、結果、プレーの幅が大きく広がりました。
その結果、トップチームの柱谷 哲二コーチの目に留まり、トップチームでの出場ということになりました。ほんと菅野さんのおかげです。
この後、大山選手は初めての壁にあたります・・・
--さて、ここからいよいよ浦和レッズのトップチームへの入団となるわけですが、やはりプロとしてデビューするのであれば浦和でという意識は強かったんですか?
そうですね、やっぱりこれまでずっと浦和の下部組織で育ったっていうのもあったし、身近な存在だったんで浦和でっていう気持ちは強かったです。
--トップチームはさすがにすごかったですか?
サッカー人生で始めにぶつかった壁といえると思います。ユースの時からサテライトの試合とかに呼ばれて、試合したり、練習にも呼ばれてという機会があったので、その当時から、すごいというのはもともと知っていたのですが、やはり次元が違ってましたね。
1年目は本当になんとかスピードとパワーについていくのがやっとでした。その1年目もうまくいきだしたと思ったら、中足骨の骨折で半年間くらい離脱してしまって、そのまま2年目も、試合出場の機会はなく、メンバーの予備の帯同メンバーに入るか入らないかの微妙な位置でしたね・・・。
--試合に出れず悔しい思いは強かったですか?
そうですね。浦和という環境でサッカーができているというのは、それだけでも楽しい部分はあったのですが、やっぱり試合に出たいって思いは強かったです。ちょうどそんな思いが強い時に愛媛FCから、オファーを頂きました。
そして、愛媛FCに期限付き移籍・・・
--浦和で2年間過ごした後に愛媛FCに期限付き移籍で入団することになるのですが、何か不安な部分はありましたか?生まれ育った土地を初めて離れることになるので、そこの不安はありました。でも、楽しみに思う部分が大きかったですね。当時の愛媛FCには、浦和出身の南祐三くんや千島徹くんもいたので、チームにも溶け込みやすかったです。
--この愛媛での1年間はどうでしたか?
いやぁ、本当に充実してました。チームの結果という点については、満足のできる内容ではないですが、試合に出れるっていうのはやっぱりおもしろかった。空いている時間も常に次の試合のことを考えてましたね。ほんと一年間があっという間でした。
--その後は、こんどは湘南ベルマーレに移籍するのですが、この1年はいかがでしたか?
実は、この時の湘南の監督が浦和でユース時代の監督だった菅野さんで、その菅野さんが僕を呼んでくれたんです。この1年が僕にとってはサッカー人生で最もつらい一年でした。
--何があったんですか?
菅野さんの期待に応えれなかったというのが、相当つらかったです。菅野さんが僕の能力に期待してくれているのがすごくわかっていただけに、それを結果に出せない自分の力のなさが歯がゆかったです。
--結構へこみました?
そうっすねー。相当へこみました。ちょうど暑い夏ごろに一番へこんだことを覚えています。
--どうやって立ち直ったんですか?
何か悩みまくってたら、ある時ぬけたんですよ。悩んでいてもしょうがない、やるしかないって。結果、シーズン終盤はメンバー入りもできて自分の状態もよくなっていきました。
その湘南のシーズンが終わった後、2008年に愛媛FCに完全移籍となるのですが
まだ自分にサッカーを続けさせてくれる環境を作ってくれたことがとてもありがたかったですね。
インタビュー後編へつづく・・・

■大山俊輔 選手
ポジション : MF
生年月日 : 1986年4月6日
身長/体重 : 179cm/73kg
出生地 : 埼玉
血液型 : A型
前所属チーム : 湘南ベルマーレ