スペシャルインタビュー OrangeLife VOL.2

青野大介インタビュー愛媛FCユースで高校時代を過ごし、関西や新潟で大学、プロ生活を過ごし、そして故郷へ帰ってきた左足のコンダクター、青野大介。今回は愛媛に帰るまでのサッカー人 生、そして独特のサッカー理論を語ってもらった。
青野大介トップチームには負ける気がしなかった
――青野選手は愛媛FCユース出身ですが、ユースに入るきっかけはなんだったのですか?
「最初は丹原東中3年になってから愛媛県内外で進学先を探していたのですが、中学 総体を石橋先生<石橋智之・愛媛FCユース総監督(現:愛媛FCアドバイザー)>が見 にきていたのがきっかけで…実は僕を見にきていたんではないらしいですが(笑)、 受験を薦められました。そこで親父とも相談してセレクションにも受かったので、ユースに進みました。」
――その際に、やはり石橋先生の存在は大きかった?
「石橋先生は愛媛県だけでなく、南宇和高校を全国高校サッカー選手権(1989年度・ 第68回大会)で優勝させたことで全国でも名が轟いていた人ですし、ユースのときの 3年間は尊敬して言うことを全て聞いていた気がします」
――ユースでの3年間はどんな3年間だったですか?
「僕はサイドハーフをやっていたのですが足が速くない中での基本の駆け引きはうま くなったと思いますし、サッカーをやる上での基本が身に付いたような気がします。 中学校までは自分の感覚でやっていたような感じでしたから」
――トレーニングもそういった基本練習が中心だったのですか?
「和泉さん(和泉茂徳・愛媛FCユース監督)も、当時のナショナルトレセンの練習を採り入れて練習していました。チームとしては、守備では決められたことをしっかりやって、攻撃は自分たちのアイディアを活かす感じでした。僕の中で『当たり前』と思っていたことが、大学に進んでみたらみんなできていなかったのを見て、しっかり教えてもらっていたことを改めてわかった気がします」
――当時はトップチームよりもユースが強かったんですよね?
「トップチームには負ける気がしませんでしたし、『県内ではどのチームにも負けたらあかん』と石橋先生からも言われていましたし、自分たちもその気でいました」
――その中でも1997年度・第77回天皇杯での活躍(JFL・アローズ北陸(カターレ富山の前身)を青野選手の2ゴールで破り2種(高校生)チームで史上初の2回戦進出。2 回戦では同じJFLの東京ガス(現J1・FC東京)を1-2(延長Vゴール)負けと大いに苦しめた)は印象的でした。
「あの大会は余裕もなかったし必死でしたね。自分たちの力を出し切って勝てたし、ガムシャラにやっていた印象はあります。(Vゴールを決めた)アローズ北陸戦も、3年になってからは点を取れていて、点に絡もうと思った結果ですね。東京ガス戦も試合前にボコボコにやられるとは思っていたけれども、押される時間が多い中で数少ないチャンスをモノにできました。終わったときは実力が上だとわかっていても悔しかったですね」
――その意味では充実した3年間でしたね。
「そうですね。高校になってはじめて全国大会に出たことで全国のレベルを知ることもできましたし。ただ、当時、稲本潤一や小野伸二といったゴールデンエイジと言われる年代に触れたことで逆にプロは無理だなと思いましたね。実は大学に進んでから、ユース時代にJリーグのチームから練習参加のオファーがあったことを知ったんですが(笑)。」

青野大介愛媛を離れて知った「順応力」
――愛媛FCユースで3年間を過ごした後は関西学院大学に進学。愛媛県から離れて見えた愛媛はどうでした?
「僕はその後プロになってから、昨年まで愛媛から離れていたのですが、意外と…いや、全然気にしていませんでしたね。もちろん大学に入ってから1~2年は自分たちと一緒にやっていた後輩もいましたからユースの成績とかは気にしていましたけど」
――では、自分では関学の中でプロをひたすら目指していただけだった?
「そうですね。自分のプレーに手ごたえが出始めた大学1年生からは就職のことは一切考えずに、ひたすらプロに行くことしか考えてなかったですが、そのときも愛媛のことは何も気にしていなかったですね」
――実際、大学卒業後はG大阪に入団
「関学のコーチも自由にさせてくれましたし、卒業してからも伸びていく手ごたえは感じていました。その意味ではユース、大学時代7年間の積み上げは大きかったと思います」
――2002年、晴れてG大阪に入団したときの印象は?
「ポゼッションのやり方とかを見て『ああ、これがプロのサッカーか』と思いました。G大阪はまだ今のような強さはなかったですが、現在日本代表やG大阪の中心となっている選手が同じ年齢でやっていましたし、大学時代の個人でやってしまうサッカーと違うので、1年目はこれまでのサッカーを全否定された感じでした。ところが、2年目はけがでシーズンの半分をリハビリしてから3年目で神戸へ移籍すると、『同じプロでもこんなに違うのか?』と思いました。ただ、神戸でもけがで半年リハビリして試合に出ることができずに結果も出せませんでしたし、その当時はけがのせいにしていましたけど、後々考えるとそのせいばかりにして自分が頑張れていなかったと感じますね。神戸を解雇され、その後にサッカーができなくなるかもしれない状況にもなったことで、はじめてサッカーをできる喜びを知れたような気がします」
――2005年に移籍した新潟では反町監督(北京五輪日本代表監督)や鈴木淳監督に大 きな影響を受けたようですね?
「反さん(反町監督)は自分を評価してくれて試合にも使ってくれたのですが、今考えると監督は自分のプレースタイルをチームに利用してくれていただけで、自分の力でポジションをつかんだわけではなかったと思います。僕が先輩から教えられたことに『順応性』という言葉があるんですよ。例えば遠藤保仁(G大阪MF・日本代表)のように自分のプレースタイルを曲げないでも監督が信頼し、周りもついてくるプレーヤーは一握りですよね。それ以外の選手は順応性がないとやっていけないと思うし、それ自体すごい力だと思います。当時の僕にはその順応性がなかったんでしょうね。プロは試合に出ることが一番ですからね。『自分のやりたいことはあるだろうけど、それは試合に出てからやれ』と先輩には言われましたし、まずは監督の言っていることを理解し、試合に出ている中で自分の持ち味を出すこと。それは全然できていませんでしたね。だから、反さんのときも自分のテンポでやっていたことがたまたまうまくいっていただけで、それを反さんがうまく使っていただけであって、(2006年に)淳さん(鈴木監督)のサッカーになったときに、試合に出ている選手はしっかり『反さんのサッカーは反さんのサッカー、淳さんのサッカーは淳さんのサッカー』と順応できたのに対して、僕は早くそれに順応できず、結果として試合にも出られなくなってしまいました。でも、淳さんに教えてもらったことは今、愛媛でサッカーをしながら気付くことが多いですね。試合には使ってもらえなかったですが、淳さんはいい監督というよりいい『指導者』だったと思いますね」

青野大介チームの引き出しを広げたい
――そのような経緯があって2007年に愛媛FCへと帰ってきたわけですが、最初に「愛媛」という選択肢が出てきたときの率直な感想は?
「正直な話、『まだ帰りたくないな』と(笑)。愛媛FCがJ2に上がったことで愛媛FCでプレーすることは愛媛県出身者として頭の片隅には置いていましたが、もう少し遠回りしたかった思いはありましたね」
――その中で愛媛に決断した理由は?
「親だけで決めたわけではないですが、親からも『帰ってこい』という言葉もありましたたし。僕は人生の選択をする中で全部を自分で決めてきましたが、自分の好きなことをやらせてくれた親にはとても感謝していますし、その意味も込めて親の言葉は大きかったですね」
――そして実際に愛媛FCに来てみての第一印象は?
「神戸から新潟に移籍したときも新潟は当時J2から上がって2年目だったので、神戸よりレベルが低いことを感じてはいましたが、愛媛FCに来たときのレベル差でのショックはそれ以上でしたね。でも、『何で何で?』では前に進まないですし、『要求すること』と、『合わせてあげる』ことのバランスを考え、僕が頑張ればできることがあれば自分に言い聞かせながらやってきたところはありますね。その結果、昨年から比べれば周りも僕がやりたいことがわかってきていると思います。もちろん自分の中でも理想のサッカーはありますが、今のチームで勝つためには、『理想とは違うゲームの進め方でもありなんだ』という引き出しは、愛媛FCに来てからできるようになりましたね。ただ、今のウチの弱いところは言われたらそれしかできない点。『あれもある、これもある』という判断がまだできないところですね。戦い方をはっきりさせればそのことについてはできている部分はありますけど、それ+αができるようになりたいですね。
――自分としてもそういった部分をチームに伝えていきたい?
「自分も偉そうなことを言っていますが、まだまだ伸びるところも沢山あると思うし、意見はもちろん言いますけど、それが絶対とは思っていません。もっと広い目で見てチームの引き出しを広げていきたいですね」
――引き出しが広がったのは、やはり9月に結婚した私生活の充実が大きいのでは?
「その話に移るんですか?(笑)プロとしてモチベーションを保つことは当然ですけど、人間である以上そこに波はありますし。奥さんがそのモチベーションを上げる材料となっていることは確かです。笑顔を見て『頑張らないかん』と…」

クラブやチームを強く、よくしていきたい
――愛媛に里帰りし、愛媛で結婚したとなると、愛媛FCに骨を埋めようという思いも強くなったのでは?
「100%というわけではないですが、そのようなこともあって愛媛FCで引退するまで頑張ろうという比重が高くなったことは確かですし、クラブやチームを強く、よくしていきたい思いは強いです。僕は結果を残すことはできなかったけど、色々なところで色々なものを見て、感じてきているので、その手助けはできると思っています。この年(29歳)になってきたので、若い選手に色々なことを伝えたいです。僕も若いころは尊敬できる先輩を見て成長してきたし、見本となれるように練習から見せていきたいですね」
――愛媛で育ち、外を見てから愛媛に帰ってきたからこその発言ですね。
「ほんと細かいことかもしれないですけど、ここではクラブハウスの使い方が悪いのを見ると腹が立つんですよね。こんな気持ちになるのも愛媛FCユース出身じゃないと思わないことだと思いますし、ここに戻ってきてから時間が経つにつれてトップチームのことだけではなく『G大阪のようにいい選手もユース、ジュニアユースから出てきて欲しい』と下部組織のことも考えるようになった自分がいます。今はガムシャラにやっていますが、もし選手を引退してもサッカーには関わっていきたいし、将来は指導者もやってみたいですね」 

取材日 9月12日 インタビュー聞き手 寺下友徳

青野大介
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